障害者施設事件と”生きる意志”と”形にできない意思”について考えること

2017/07/29オピニオン

どうもコアラです。(@hotkoala_

今回は少しだけデリケートな話をします。
いつも明るく元気なコアラさんにそういった話は期待してないよって方はそっとページを閉じてください。

あなたもご存知かと思いますが、ちょうど一年ほど前に神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で元施設職員の男が重度障害者19人を殺害、27人に重軽傷を負わせる事件を起こしました。

もう1年も経つんですね。
時の流れは早いものですが、あの事件は衝撃的でした。
まだ、ニュースの映像が記憶に新しく、恐らく忘れることはないでしょう。

改めて、この悲惨な犯罪で亡くなられた方々にご冥福を祈ると共に、被害者の方々、そのご家族の方々の心痛はお察しするに余りあります。

この事件に関して、Twitterで交流のあるdacさん(@daccot)が「岩崎さんが残念に思う大多数の無関心層が「仕方ない」に抗うために出来ることは何か?」という記事を書かれました。

岩崎さんが残念に思う大多数の無関心層が「仕方ない」に抗うために出来ることは何か?

記事の中で岩崎氏が書いた記事も紹介されていますので、先に読んで頂いてから僕の記事を読んでもらったほうがいいかもしれません。

参考リンク(岩崎氏の記事):「しかたない」を乗り越える。誰もが生きることを脅かされないために

岩崎氏の想いと障害者を父に持つ僕の想い

岩崎氏が記事内にて下記のような言葉を残している。

「多くの人と出会い、つながり、自分の命と人生をあきらめずに生きる」
「しかたない」を乗り越える。誰もが生きることを脅かされないために)より引用


このように障害を持ちながらも前向きに生きる姿勢を素晴らしく思います。
これは何も岩崎氏に限ったことではなく、一般の人でも前向きに生きる人を素晴らしいと思っています。

しかし、対照的に男はこう言っている。

「障害者は不幸しか作れない、社会のためにいなくなったほうがよい」
「しかたない」を乗り越える。誰もが生きることを脅かされないために)より引用



問題の事件で、男によって多くの方が殺害されてしまったことは非常に悲惨であり、あってはならないことである。
これを前提に話をしたい。決して加害者を肯定するつもりはない。

肯定するつもりはないが僕は男の”言葉”を他人事のようには受け取ることは出来なかった。
なぜなら僕の父が過去に病床に伏したことがあるから。

脳の出血による病気を患い、現在でも後遺症が残っている。
記憶などが基本的には残らないほどの重度の障害がある。

今は生きていてくれてよかったと心の底から思う。
だが、当時は本当に辛かった。

結果的には回復したが、父が倒れた時、手術が終わった後でも父は目を覚まさなかった。
脳の病気は重度で医者からはもう目を覚ます可能性は非常に低いということを告げられた。

このような”コミュニケーション”が不可能な状態となってしまうと残された家族は気持ちのやり場がなくなる。

想像を絶するほど「空白」というか「虚無」というか。
今までの父とは別人ではないかとすら思えるほどだった。

冷たい人間だと思うかもしれないが、それほどまでに”コミュニケーション”ができないことは苦しいし、ストレスだ。

父は1年ほどで回復に向かったことが幸いだったが、あの状態が5年も10年も続いていたらと思うとゾッとする。

このような状態で施設に入っている場合、家族が面会にすら来なくなるケースも少なくないようだ。
実際に複数の関係者から聞いている。

岩崎氏のように“生きる意志”を持った人たち。
つまり何かしらの形で意思の疎通や意思の表示をできる人たち岩崎氏が言うように諦めずに生きてほしいと思うし、そういう人たちに対しては当然、人格をもつ1人の人間として接するべきだ。

人格を否定するつもりはないが、コミュニケーションがとれなかった父のように“意思を形にできない”人がいることを忘れないでほしい。

改めて言うが、だからといって他人が命を奪って良い訳がない。これは断じてあってはいけない。

男が言うことの真意は…

男が伝えたかったことの真意は他人事のようには感じることができない。
実際に男が何か伝えようとしていたかは定かではないが、もし仮にこういった現実や国の体制の現状を憂いての発言であれば、行動は間違っているが全てが間違った”言葉”ではないように思う。

言っていることは極論すぎる上に、偏りすぎている。
仮にそれを伝えるとしても他人や家族が命を奪うことにはつながらない。

しかし、当時の僕は本人(遺書など)と家族の合意があった場合の選択肢があってもいいのではないかと考えたりもした。

この選択肢は非常に線引きが難しいのは分かっている。
ただ、意思があるかも不明の状態で、家族にとって負担にしかなっていないケースも現実にある気がするのだ。

この負担を国では支えきれていないし、施設や介護師も不足しているため福祉の現場でも支えきれているとは言いがたい。

岩崎氏は「バニラエアの問題」に対して声を出して「しかたない」をどうにかしようとしたことだとしている。
これは見方を変えれば、現状を打破する一手という意味で男がやろうとしてたことと似たものではないだろうか。

もし仮に男が現状を憂いてどうにかしたいと考えた一手だったとしたら、男の選択は悪手でしかない。
このやり方では人々に悲惨な記憶を植え付け被害者を増やすだけで、当然メッセージとして届かない。
ただの狂気の殺人犯で終わりだ。

しかし、あなたが現場で実際に苦しんでいる家族を見ていたとして、本当にどうにかしなくてはと思ったとき…
あなたならどうする?
「しかたない」の壁を前になにが出来る?
僕にはこの状況をどうにかする術が見つからない。

「しかたない」と容認してしまう、多くの人は無関心なのか?

岩崎氏が語り、dacさんが切り取った言葉。

日常生活の様々な局面で障害を理由に制限された暮らしを強いられている状況を「しかたない」と容認してしまう考えが、多くの人に無関心という形で現れているのを残念に思います。
「しかたない」を乗り越える。誰もが生きることを脅かされないために)より引用



これは僕も身内に障害者を抱える身として常日頃から感じている。
ただ、僕は健常者としての気持ちも凄くわかっているつもりだ。

身内に障害を抱えるひとがいない多くの人は「無関心」なフリをしているのではないだろうか。

というのも、仕事や身内など身近に障害者がおらず、触れる機会がなかった人たちにとってどう接していいのかわからないというのは大きいのだと思う。

僕も父が倒れるまでは実際にそうだったし、子供が産まれるまでは友人の子供など子供に対する接し方もどうしていいか分からなかった。

僕のように「無関心」を装ってしまう人は多いのではないだろくか。

いつも思うのだが、携帯を落としたりハンカチを落としたら拾ってあげる。財布が落ちていたら交番に届けてあげる人たちがいる

迷子の子供や、階段がつらそうなご年配の方を助けてあげる人たちがいる。

こういう優しさに溢れた日本人はたくさんいる。

ただ、朝の通勤の遅刻に対する会社の規律であったり、セクハラや痴漢という名の冤罪であったり、詐欺やひったくりなどの犯罪であったり…

某国ではないが日本でも人助けがしづらくなってきている現状はあると思う。

dacさんのように発信することができなくても、本当は優しさに溢れていて気にしているけど何も出来ない日本人はたくさんいると思っている。

僕は障害者だからといって特別扱いしたくないと考えている。
さっきの話と矛盾しているように感じるかもしれないが、人格をもつ1人の人間としては尊重すべきだからだ。

子供に対しても同じ目線で話すように、障害者に対しても同じ目線で話せばいいのではないかと思う。

「何か手伝いましょうか?」「これ、落としましたよ。」と他の人に接するのと同じような一言でもいい。

今、助けが必要かどうか。どうしら良いかを教えてくれるはずだ。

そんな些細な優しさだけでも嬉しいはずだ。
それは自分が困っている時に手を差し伸べてもらうのと同じ気持ち。

僕が目の前で父を見てきて父の状況だったらどう思うか。どう考えるかを自問自答してきた自分なりの答えだ。

国はどうするのか。
とりあえず、末端にまで行き渡るはずもない補助金などのやり方は詰んでるからやめてほしい。
手を抜かずにちゃんと働く方々に還元できるような仕組みを作るべきだ。

終わりに

今回の事件に関しては以前からいろいろと思うところがあり、考えていたことだった。

自分の意見を実直に表現してくれたdacさんに感化されて僕も伝えたいというか伝えるべきかと思った。

こういう経験をしている人はあまり多くないだろうし、こういった事件に関しては当事者の障害者の方々の意見ばかりにフォーカスがあたる。

最後にもう一度断っておくが、殺人を助長する気も、男を正当化する気もない。

その上で言わせてもらうが、実際に介護に苦しんでいる家族が世の中にいることから目を背けないでほしい。

現状の福祉政策では満足に生活できないこともあるのだ。

繰り返しになるが、男が言うように苦しむ人々を目の当たりにして、その状況を打破するためにあなただったら何ができるだろうか?

殺人犯の”言葉”に耳を貸せとまでは言わないが、何か意図することがあったかもしれないと深く考えてみるのは悪いことではないと僕は思う。

そして障害者の方が困っていたら手を差し伸べてみてほしい。
もし、あなたが今まで「無意識」を装っていたのであれば、肩の力を抜いて同じ目線で気軽に声をかけてあげるだけでいい。

そのちょっとした一言がその人にとっては大きな救いになるかもしれないのだから。